会長退任にあたり
徳島慶應倶楽部 前会長 吉見誠記
このたび徳島慶應倶楽部の会長職を辞するにあたり、10年5か月お世話になった皆様方へ感謝の言葉を送るとともに数々の思い出を振り返ってみました。
故三木徳島慶應倶楽部前会長から「吉見君は生涯事務局」と言われていた私が、会長職を拝命したことはまさに青天の霹靂でありました。当時はまだ47歳という若輩でもあり、どう考えても私より会長にふさわしい先輩はたくさんいらっしゃったので就任を固辞したのですが、諸先輩方に抑え込まれ受諾せざるを得なかったというのが正直なところでした。しかし10年以上経った今、振り返ってみるとあの時引き受けていなければ一生会長になることもなかっただろうし、会長になっていなければ私の人生も変わっていたかもしれないと思うと、まさに天命だったのかもしれないと今は思っています。
就任してすぐの四国連合三田会が徳島で開催されましたが、台風直撃で愛媛組は全員欠席、当時の安西塾長の飛行機も飛ぶか飛ばないか直前までわからないという最悪のスタートでした。就任2年目には早くも150周年の募金活動が始まりましたが、塾からの要請がこちらの予想をはるかに超えていたために先行きの不安を感じたのも遠い昔のような気がします。その後徳島慶應義塾分校跡記念碑の場所を無償提供いただいていたホテルが土地を売却して横にコンビニが建ってしまいました。2008年に150周年募金目標額の達成後、直ちに記念碑移設の相談、折衝とかなり綱渡りの運営でしたが、翌2009年夏にようやく徳島県庁の敷地内に無事移設することができました。気がついたら会長就任後はや5年の歳月が経っており無我夢中の連続でした。この後故服部慶應連合三田会前会長より大阪、京都合同の分校跡記念碑のパンフレット作成のご提案を受けたのですが、ひと仕事終えて一段落していた私は「今すぐは勘弁して下さい」と猶予をお願いしたのが、後で後悔することになろうとは当時は思いもよりませんでした。
この当時を振り返ると徳島慶應倶楽部をもっと活性化するために何ができるかを模索していた時期であり、後のホームページの開設や他の三田会との連携や関わり方も考えるようになっていました。2期8年を迎える頃には、自分の引き際を考えるようになり、どのように次の人にスムーズにバトンを渡せるかを本格的に考えるようになっていました。それが服部さんからの提案だった分校記念碑のパンフレットの作成と記念視察旅行へとつながっていきました。結局服部さんのご存命中にパンフレットは完成しませんでしたが納得のいく内容のパンフレットも完成したし、思い出深い記念視察旅行も出来、四国だけでなく大阪、京都をはじめ関西合同三田会の皆様ともお近づきになれたことは我倶楽部にとっては大きな収穫でした。
以上が私の会長就任期間中の回顧録ですが飛ぶ鳥跡を濁さずで昨年の12月の四国連合三田会での退任挨拶を皮切りに、1月10日の大阪での福沢先生誕生記念祝賀会で関西合同三田会の皆様に、2月1日の徳島での新年会、2月3日には塾と福澤先生の墓地にも報告、2月8日には大阪、京都両慶應倶楽部の役員の方にもご挨拶をさせていただきました。上記写真は2月1日の新年会の一コマですが、肩の荷が下りた表情が良く出ていると思います。
これからは理事長として三木康弘新会長と事務局の補佐をしっかりやっていきたいと考えております。今後も新会長、新体制の徳島慶應倶楽部にこれまで以上のご支援、ご指導をお願い申し上げて私の退任のご挨拶とさせていただきます。誠に有難うございました。
a:5596 t:2 y:1