服部禮次郎会長を偲んで
徳島慶應倶楽部 会長 吉見誠記
服部会長の訃報を聞き過去の様々な思い出が浮かんできました。会長とは36歳の年齢差があり単なる学校の先輩というにはあまりにも恐れ多い存在でありますが、私が徳島慶應倶楽部の会長というだけではこれまでのようなお付き合いは到底できるものではなかったと思います。やはり何かのご縁があったと思わざるを得ません。
会長との最初の出会いは今から12年前の2001年のことでした。当時私は徳島慶應倶楽部の事務局のお手伝いをしていた立場でしたが、徳島は何故三田会でなく慶應倶楽部なのかを調べていました。全国の慶應倶楽部に手紙を書いてその名前の由来を尋ねていたのですが、ある日私宛に1本のお電話があり懇切丁寧に説明して下さった方が実は服部会長ご本人であり、大変びっくりしました。
初めて実際にお会いしたのは翌年の2002年7月でした。当時会長は福澤諭吉協会の理事長もされておりその関係で史跡見学会の下見に徳島に来られました。慶應連合三田会のトップである服部会長は私にとっては雲の上の存在でしたが、一介の塾員の私にさえ丁重にお言葉をかけていただきとても感激しました。その時ひょんなことから徳島県井川町にある徳島出身の塾の大先輩である内田弥八の碑と人物の説明を当日見学会の参加者相手にやってほしいと頼まれ、何とか大役を果たすことが出来、服部会長にも大変喜んでいただき、なつかしい思い出の一つになりました。
この史跡見学会をきっかけに打ち合わせや報告等で何回かお会いする機会が続きましたが2年後に思いもよらず私が徳島慶應倶楽部の会長に就任して、またお付き合いが始まりました。当時まだ47歳という若輩で会長に就任したため服部会長もご心配いただき「色々大変でしょうが頑張って下さい」と激励を受けとてもうれしかったです。
服部会長は私にはいつも優しいお言葉をかけていただいておりましたが徳島慶應義塾跡記念碑の横にコンビニが建設された後2008年にお会いした時には「あれは何とかして下さい」と強い調子で言われました。その後色々ご相談にものっていただき、最終的に2009年に現在の徳島県庁に無事に移設できました。
服部会長は本当に三田会想いでその後も次々と色々なご提案を私に投げかけてきました。2010年には慶應の3つの分校記念碑の紹介パンフレットを作ったらどうかとの提案を受け、ようやく目処が立って作成することになったことを先日報告したばかりでしたが、完成品をお見せできなかったことは誠に残念でなりません。
最後に昨年の徳島での四国連合三田会のご出席が私にとっては最後のご対面になってしまいましたが、移設された記念碑も見てもらい、初めて会長と2人で肩を組んで「慶應讃歌」と「若き血」を歌えたことは今となっては良い思い出です。体調の芳しくない中、遠路徳島までお越しいただき総会を盛り上げていただき本当に感謝しています。
服部会長の遺志を、残された我々が微力ながら力を合わせて引き継いでいくことをお誓い申し上げます。
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